2001年3月11日
礼拝説教題 「信仰の視点のある人間関係」
創世記45:1〜15、コリントU5:16〜19
喜びの涙と共に抱き合っている人たちがいます。ずっと引きずっていた大きな負い目から解き放たれたからです。
自分の罪を赦され解決してもらったとき、この人たちは新しく生きる者となりました。
ここで赦すのは、被害者だったヨセフです。力を持つようになったヨセフのもとに、
加害者である兄たちが助けを求めてきました。復讐をするのに絶好の機会が巡ってきたのです。
その兄たちに涙ながらに語りました。
<今はわたしをここに売ったことを悔やんだり責めあったりする必要はありません。>
憎き相手にこう言えたのは、ヨセフの人格が素晴らしかったというのではありません。
ただ神の前に立つことによってでした。彼は神との関係の中でものを見ました。自分自身の事もそうです。
神の光の中で見たときに、人の悪意に振り回されているとしか見えなかった自分の生涯が違って見えました。
神の導きのうちに置かれていたことに気付いたのです。
<神がお遣わしになったのです。>そのときヨセフは憎しみ以外のものを見出せました。
このヨセフと兄たちの物語は、主と私たちの関係に似ています。問題を抱え、
負い目を抱えて主の前に集う私たちです。
主はそんな私たちに裁きの言葉を向けるのでなく、涙ながらに語ってくださいます。<もっと近くに寄って下さい。
わたしはあなた方が十字架につけたイエスです。
しかし今は、それを悔やんだり責めあったりする必要はありません。
あなたの命を救うために、滅びでなく永遠の命に入れるために、神がわたしを十字架に遣わされたのです。>
と仕返しでなく、赦しの言葉が向けられます。ヨセフの力は兄や家族の救いのために発揮されます。
主の力は、救うための力であり、私たちが赦されたものとして新しく生きるために発揮されます。
主に新しくされたことを本当に知るとき、ヨセフのような神の光の中でものを見る目が開かれます。